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追分節のル−ツ
信濃追分宿の飯盛り女たちが唄った悲しい調子が特徴の「馬方節」が「追分節」となり、独特の旋律が各地に伝えられ、江差追分などもの原型になったとされています。
碓氷峠の 権現様は♪
わしが為には守り神♪
浅間山さん なぜ焼けしやんす♪
裾に三宿 持ちながら♪
※中山道の追分・沓掛・軽井沢宿を浅間根腰の三宿と呼び、参勤交代の行列や善光寺参詣の人々でにぎわっていました。

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追分一里塚
国道18号線の左右に、丸い塚がみられ、これは慶長9年(1604年)徳川家康の命により各街道へ一里ごとに塚を造らせ、塚の上には榎等を植え、旅人の休憩場所と、距離表示の役割を果したとされています。これを「一里塚」と呼び、各地に残っているがこの追分の一里塚はよく当時のままの形が保存され、史跡の資料となっています。
江戸へ39里 追分一里塚 京へ91里14町

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分去れ(わかされ)
の碑
宿の西はずれにある「分去れ」は、京都へ向かう中山道と、越後へ通じる北国街道の分岐点で旅人同士が、ここで別れを惜しみ、旅を続けたといわれています。道標には、「右、従是北国海道 左、従是中仙道」と刻まれています。
案内版には、「右に分かれて行けば北国街道 姨捨山の月の名所 更科へ そして善光寺へ。 左に進めば中山道 京都へ そして桜の名所吉野へと道が続いていることを教えた」と解説しています。
道標の傍には、常夜燈が、当時のままあり、旅人がお互いに別れを惜しんだ光景が

偲ばれます。
(※後に北国海道=北国街道 中仙道=中山道に統一)
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桝形(ますがた)
の茶屋
枡形とは江戸時代軍事上の目的から、中山道のこの辺りを桝形に屈曲させ、宿場の見通しがきかないよう、構築したもので、その付近にある茶屋を「枡形の茶屋」と呼んでました。2階を前に突き出した出桁造りになっていて、当時の追分の風情を今に伝え、面影を残しています。

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追分馬子唄にも歌われている桝形屋
ア〜キタホイ 追分の枡形の ア〜キタホイ♪
茶屋でヨー ホイ ほろりと泣いたが ア〜キタホイ♪
忘らりよか ア〜キタホイ オーサドンドン ア〜キタホイ♪
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