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■満泉寺(村上氏居館跡)
満泉寺本尊は安山岩で作られた仏様です 県宝に指定され、鎌倉時代後期の製作と見られ、戦国の動乱をくぐり抜けて今に伝えられました。石造の本尊は満泉寺が県内唯一です。
■坂城と村上義清
平安時代の末に村上郷に発祥した村上氏は、平安・鎌倉時代を通じて村上を本拠に活躍し、南北朝時代後期に坂木(坂城)に移りました。戦国時代には、東北信一帯を支配する戦国大名として村上義清が現れます。義清は坂城を本拠地として、甲斐の武田信玄による信濃攻略に対し2度ほど善戦したものの、天文22年(1553)義清は葛尾城を放棄して上杉謙信を頼り、越後へ逃れました。これが川中島の合戦につなっがっていったといわれています。
義清は二度と坂城の地には戻れませんでしたが、正直で人情味があり、信仰心の厚い人であったと伝えられています
■県宝 旧格致学校校舎(かくちがっこう)
明治初期の擬洋風校舎。「歴史民俗資料館」として活用されています。
この格致学校の建物は、明治10年(1877)に建てられました。正面入り口のアーチ、ガラス入り開き戸などに洋風形式を取り入れ、屋根や漆喰塗の外壁は日本伝統の様式を取り入れています。
■北国街道
江戸時代、北国街道坂木(坂城)宿として栄えた当時の繁栄を物語っています。
■笄(こうがい)の渡し
中世、当地方を通って善光寺方面に向かう道は、千曲川の西岸と東岸にありました。
両岸を結ぶ渡しは、何箇所かありました。笄の渡しもその一つです。現在は、坂城町苅屋原の笄橋付近が笄の渡し(村上義清夫人が渡った)の位置とされています。
室町末期武田信玄と激しい戦いの末居城が陥落し、奥方が着の身着のまま逃げ千曲川の対岸にある支城である上山田の荒砥城(千曲市上山田)に逃げる際渡しの船頭に事情を話し頼んだところ船頭は命を張って無事に対岸の力石(千曲市力石)に渡してもらったお礼に髪にさしてあった笄(櫛)を手渡したことから村人は義清公夫人を偲んで笄(こうがい)の渡しと呼ぶようになったとされています。現在は笄型の橋が架かっています。
渡しがあった場所 現在の笄橋 対岸の三角形が印象的な自在山
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