さようなら屋代線 @
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12.4.1

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「90年の歴史を閉じた長野電鉄屋代線」
1922年(大正11年)に松代など千曲川東岸の町々を結ぶ屋代〜須坂間に河東鉄道が設立河東鉄道が屋代 - 須坂間が開業。
1925年に木島まで延伸され、当初は蒸気機関車による運行であったが、1926年には屋代 - 須坂 - 木島間が電化される。
信州中野 - 木島間の通称木島線が廃止された2002年に、運行形態に合わせて屋代 - 須坂間を屋代線、長野−湯田中を長野線と正式に呼ぶようになる。
年間利用者数は48年の330万人をピークに48.5万人に激減し累積赤字は50億円を超え長野電鉄は、今後10年間に必要な投資額(車両更新や施設整備)は30億円を超えるとされ、非常に厳しい経営状況となっている。
駅は13(須坂市2駅/長野8駅/千曲市3駅)通過する3市の存続支援策を議論されている。
もっと電車に乗ってもらうにはと模索が行われていたが、残念ながら廃線が決定した。
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「思い出の東屋代駅 松代駅舎」
昭和33年の頃、クラブ活動で土曜日の午後になると測量道具を持ち東屋代駅から大室駅まで通い大室古墳の計測や研究を行っていた
当時の東屋代駅は駅員がいた。駅舎は開業当時の建物ここに駅員をいたくされていた家族が住み込みしていた。

松代駅舎は開業当時の建物、そして殆どが無人駅にて切符は電車の中で購入するが数少ない有人駅切符の販売は嘗て国鉄時代に見られた旧式の硬券手動販売。
始発の屋代駅は硬券式自動販売機しかし4駅しか買えない他の駅は電車の中で購入。
電車の乗り降りにもワンマンの為バスと同じ初めての場合手間どう

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「長野電鉄屋代線の歴史」
1922年(大正11年)6月10日 河東鉄道により屋代 - 須坂間が開業。
1926年(大正15年)1月29日 河東鉄道全線電化。
1926年(大正15年)9月30日 河東鉄道が長野電気鉄道を合併し長野電鉄に社名変更。屋代 - 須坂間は河東線の一部となる。
1983年(昭和58年)10月27日 屋代 - 松代間で連動装置自動化。
1983年(昭和58年)12月14日 屋代 - 須坂間でCTC使用開始(翌年2月1日から本使用開始)
1993年(平成5年)11月1日 屋代 - 須坂間ワンマン運転開始。
2002年(平成14年)9月18日 屋代 - 須坂間を屋代線と名称変更。
2011年(平成22年)4月1日 屋代線廃線届け
2022年(平成23年)3月31日 屋代線廃線
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【国鉄電車の直通乗り入れも】

昭和12年には、季節列車ではあるものの、長野駅経由湯田中、屋代駅経由湯田中の各路線に念願の国鉄客車の乗り入れが実現した。
通年運転を開始したのは、昭和37年3月1日で、上野〜湯田中間に国鉄のディーゼル急行列車「志賀号」「丸池号」が乗り入れ、[屋代駅]でうち2両を分割併合して直接乗り入れ、1日2往復の運転を行い、昭和38年10月からは湘南色の急行電車で運転していた。

同様に貨物列車も昭和30年代後半の輸送の主流を占めた長野県特産のりんごの輸送として、大阪までのりんご専用貨物列車「やまさち号」も運行していましたが、長野電鉄の貨物輸送自体が昭和54年4月に取り扱いを廃止した。
そして国鉄電車の乗り入れは、乗客の減少により昭和57年11月15日に廃止となりました。
廃線までの惜別企画として「しなの鉄道」が所有の国鉄当時の車輌(169型車輌 この車輌も昨年JRの安全基準に合わなくなり篠ノ井から先が走れなくなり廃車となる)で急行「志賀」を計画現在の保安規格は長野電鉄の保安規格が異なる為に乗り入れが出来ないが乗換えで復活実現した。鉄道フワンには絶好のチャンス、カメラマンが屋代駅に訪れている。
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